ようこそコガタナラボへ。フクイカズマです。
今回は「つくりながら考える」造形プロセスについて解説します。
いきなり「つくりながら考える」と言われても「?」ですよね笑
これは小学生くらいの子どもがものをつくっているときなどに見られる子どもの造形プロセスです。
子どもが何かをつくってるときって、最初につくろうと考えていたものとは全く違うものができあがることってよくあるでしょ?
それです。
先行研究や文献を読んだり、授業実践などの分析・考察を通して「つくりながら考える」造形プロセスと僕が勝手に命名しただけのものです。
といっても、このプロセスは小学生の造形活動のときだけに発揮されるというよりは、中学校や高校の美術科や工芸科だけにとどまらず、人間の生きる力というような根幹に働きかける重要な要素である、と最近は考えています。
なので、僕が担当する大学の授業の至る所でこのプロセスの要素を取り入れています。
少なくともこのプロセスを知っていると、題材設定の幅が広がったり、子どものつくる行為や造形活動についてより共感的に接することができたりすること間違いなし!
本プロセスについては、以前に初等教育資料にも掲載してされていますので、お持ちの方は合わせてご参考ください。
それではいってみましょう!
造形プロセス「順序よくつくる」と「つくりながら考える」
ザクッと言ってしまえば、造形プロセスには「つくりながら考える」の他に「順序よくつくる」に大別できます。
これも僕が勝手に命名したものです。
これは、どちらが大切というようなものではありません。
子どもそれぞれに得手不得手もあるので、バランス良く取り組むことが大切です。
個人的な感想を述べるなら、今は「順序よくつくる」ということに偏っているようにも思えるので、「つくりながら考える」を増やしていこうぜ!と思ってこの記事を書いています笑
「順序よくつくる」造形プロセス
まずは「順序よくつくる」から解説します。
だいたいのイメージは下の図のような感じです。
まずは、つくりたいもの「D」というイメージに向けて、材料「A」を切ったり貼ったりするつくる行為を通して「B」にします。
さらにそれを「C」にして、最終的にイメージした「D」にしていくというものです。
これは最もよくみられるプロセスといえます。
イメージの下描きをして、その通りにつくっていく。
イメージありき。
イメージの固定化。
なので、つくるもののイメージが浮かばないと活動に取り組めない。
「ここが、こうだから、こうしていく」というような、思考的(言語的)な考え方で進めていくという言い方もできるかと思います。
イメージを下描きして、それに向けて活動に取り組むことから、見通しを持ったり、計画性を培ったりすることにも向いています。
また、指導する教員の立場から言えば、一斉指導がしやすいという特徴もありますね。
「つくりながら考える」造形プロセス
「つくりながら考える」はこんな感じです。
最初はイメージ「D」に向けて、つくる行為で材料を「A」から「B」にしていきます。
その際に、「あれっ、こんなことができるやん」って新たな気付きを得ます。
「それならこんなこともできるかも!」と「C」になるところを「C’」にしていきます。
そして、「ほなこんな感じも面白いんちゃう?」と、どんどん「D」からかけ離れたものになっていく。
これが「つくりながら考える」造形プロセスです。
つくっている途中で新たな面白さを発見したり、気付いたりして、その面白いほうに舵をきるから、最初と違うものが出来上がる。
これは最初のイメージ「D」がなくても成立します。
つくりたいもののイメージがなくても、段ボールや新聞紙や木や粘土などをいじって遊んでいるうちに、「あれっこんなことができるやん!」「ほなこんな感じも面白いんちゃう?」とイメージを着想していくのです。
なので、イメージの変容を前提としたプロセスといえます。
その都度、面白いと感じた方向に舵をきっていくプロセスなので、感覚的(非言語的)に捉えながら進めていくというものです。
自分の感覚に従って好きなように活動を進めていくことができます。
指導する立場としては、個別指導がベースになるので教員の子ども理解にもうってつけです。
ただ、その場の思いつきで行き当たりばったりになることが多いので、作品が児童・生徒の納得のいく形で出来上がるかどうかはわかりません。
常に綱渡りをしているかのようなスリルです。
教員としてはたまったものではない笑
だからこそ、児童・生徒と一緒になって考えながら支援をしていくことになります。
「つくりながら考える」造形プロセスとアフォーダンスの理論
それでは、このプロセスの特徴をもう少し掘り下げていきましょう。
先ほど、「思いつき」や「行き当たりばったり」という言葉を使いました。
これは、一見するとよくないようなイメージがあります。
でも、「つくりながら考える」造形プロセスでは中核を担う大切な要素となります。
その理由を簡単に解説ましょう。
「つくりながら考える」という言葉は僕が勝手に名付けたものですが、そこに至るまでには藤田達人氏の論文やレヴィストロースの「ブリコルール」という考え方、浜田寿美男氏の文献、ジョージギブソンのアフォーダンスの理論などを援用しています。
ここでは、主にギブソンのアフォーダンスの理論を取り上げて、詳しく解説してみようと思います。
本プロセスでは、その都度、(行為者:児童・生徒)が面白いと思った方向に舵をきっていくことになります。
それは、つくる行為から得られる新しい刺激が、脳を活性させて新たなイメージの着想を促しているからです。
この新しい刺激とは、材料の変容から得られるだけでなく、教員や友だちとの会話や教室などの周りを取り巻く環境、道具の用法など様々な要因が考えられます。
これを「単なる思いつきでしょ」と言われると、その通りなのですが、それは単なる思いつきであって単なる思いつきでないのです。
なんのこっちゃ?ですよね笑
この単なる思いつきを理解するには「アフォーダンスの理論」を援用するとわかりやすくなります。
アフォーダンスの理論とは
「アフォーダンスの理論」とは、知覚認知心理学者のJ.J.ギブソンが提唱したものです。
ギブソンは下記のように述べています。
環境のアフォーダンスとは、環境が動物に提供する(offers)もの、良いものであれ悪いものであれ、用意したり備えたりする(propvide or furnish)ものである。
J.J.ギブソン,1985,「生態学的視覚論—ヒトの知覚世界を探る—」,サイエンス社,p.137
事物を知覚することとは,その事物がアフォードするものを知覚しているということであり,それは「環境に存在する事物の「価値」や「意味」を直接的に知覚されることを意味している」
J.J.ギブソン,1985,「生態学的視覚論—ヒトの知覚世界を探る—」,サイエンス社,p.137
一読するだけではわかりにくいかもしれません。
僕たちを取り巻く環境は様々です。
家、職場、学校、店、街、自然、ひとつひとつ取り上げると枚挙に暇がありません。
その環境ひとつひとつから、自覚・無自覚にかかわらずあらゆる意味や価値を受け取って生活しています。
環境が有するその意味や価値がアフォーダンスです。
例えば、家や職場や学校にある「壁」ひとつとっても、形状や素材、模様、色、それがある場所やシチュエーションによって、見え方や感じ方が変わります。
気分によっても受け取るイメージは変わってきます。
それは、事物が有するアフォーダンスを僕たちが自覚・無自覚にかかわらず知覚しているからだと言えます。
それがアフォーダンスの考え方です。
行き当たりばったりとは事物から与えられる「価値ある情報」を読み取る行為
このように身の回りにあるあらゆる事物はその存在自体が様々なアフォーダンスを有しており、僕たちはそのアフォードされたものを知覚している、ということになります。
佐々木正人氏の言葉を借りるなら、
「アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のこと」であり、知覚者にとっては、「価値のある情報」である。
佐々木正人,1994,「アフォーダンス—新しい認知の理論」,岩波書店,pp.60-61
ということになります。
アフォーダンスを「価値ある情報」と置き換えると理解が進みやすい。
つまり、僕たちは周りにある環境から常に何かしらの「価値ある情報」を読み取っているということです。
そして、これは上述の「単なる思いつき」にも言えます。
造形活動の中での「単なる思いつき」とは、事物から与えられる価値ある情報を、自覚・無自覚にかかわらず読み取る行為と捉え直すことができます。
段ボールの活動であれば、段ボールの形や質感から、木を削る活動であれば、削られた木の形や削る感触から「価値ある情報」を読み取っているのです。
それは言葉に変換できるものだけではありません。
色や形などから直接読み取っているので、「なんとなく」としか形容できないこともあります。
むしろ、こちらのほうが多い。
なので、図工や美術科では、色や形そのものが「言語」と捉えることもできるのではないか、と僕なんかは考えています。
・・・ちょっと飛躍しましたね(^_^;)
「単なる思いつき」や「行き当たりばったり」と言われる行為の多くは、形や色から直接的に「価値ある情報」を読み取った結果であると言える。
だからこそ、子どもの稚拙な行為として捉えることはナンセンスだと、僕は考えています。
「つくりながら考える」造形プロセスの3つの特徴
こうして、造形活動の中で、その都度、面白い方向に舵をきっていくことを続けていくと、次のようなことが起こります。
行為者自身にも何が出来上がるかわからない
それは、行為者自身にも何が出来上がるかわからない。というものです。
そりゃそうですよね。
単なる思いつきの行き当たりばったりですから笑
でも、だからこそ、それまで自分の中になかったものが出来上がるのです。
つまり、自分を超えた新しい何かが生まれるのです。
行き当たりばったりだから、納得する形で出来上がるかどうかもわかりません。
でも、それでもいいと僕は考えています。
図工や美術科では作品をつくりあげることが目的ではないと過去記事に書きました。
作品をつくることを通して、「知識及び技能」「思考力・判断力・表現力等」「学びに向かう力、人間性等」の3つの観点にかかわる力を伸ばしていくことが目的です。
なので、題材設定の時点で、授業のねらい(題材目標や評価規準)をしっかりと絞り込めているのであれば、極端な話、作品ができようができまいが評価に影響はありません。
そりゃ、作品が自分の納得する形で出来上がったほうが、つくっている本人とっては嬉しいし、つくる喜びを感じやすくなるので、それにこしたことはない。
もっとつくりたい!という意欲も生まれやすくなりますからね。
だからこそ、そうなるように教員も必死で支援するようになります。
このプロセスでは、つくる過程で十分な学びを得られるので、過剰に作品の出来不出来に固執する必要もないよ、ということです。
自分で決めることの連続
そして、その都度、面白いと感じたことに舵を切るということは、その都度、「自分で決めて」その方向に向かうということです。
その様々な選択は、教員が決めるのではなく、行為者(児童・生徒)である自分が決めるしかないのです。
誤解を恐れずに言うならば、小学校から大学に至るまでの学校教育では、児童・生徒・学生が「自分で決める」という機会を十分に提供できているとは言えません。
子どもたちは常に「与えられる」立場にいるように思います。
なので、出された課題を「こなしていく」力は高くても、自分で何がしたいのかを考えることを苦手とする人が多い。(という僕個人の感想です)
もちろん、これには他の要因もあります。
過去に、教員や親や友だちから自分で決めたことを否定された経験があると、「自分で決める」という意欲や意思が挫かれます。
そして、否定されるのが怖くて、学校の中で教員の指示通りに動く経験ばかり積んでしまうと、「自分で決める」という選択自体を最初から放棄してしまうこともあります。(教員に逆らえ!ってゆうてるんやないです笑)
でも、「つくりながら考える」造形プロセスでは「自分で決める」ことが前提となります。
だって、誰にも何が出来上がるかわからないから聞いてみようもない。
とりあえずやってみないと正解が誰にもわからないから「自分で決める」しかない。
だからといって、ここで教員は放置するのではなく、手が止まっている児童・生徒がいたら、一緒に考えるという支援が有効だと思います。
また、自分の感覚に従って「自分で決める」には、「〇〇すべき」という思考ではなくて、「〇〇したい」という基準で考えるとよいと思います。
つまり、他人軸ではなく自分軸で考えるということです。
このように「自分で決める」経験を積むことで、他者が「自分で決めた」ことにも寛容なれるような気がしています。
真のコミュニケーションが生まれる
鷲田清和氏は、著書『大人の背中』の中で、学校教育のコミュニケーションについて次のように指摘しています。
ふつう、訊ねるというのは、じぶんが知らないことを訊ねるものだ。知らない者が知っている者に訊ねるものだ。知らないから教えて欲しいと、何かを訊く。
鷲田清一,2013,『大人の背中』,角川学芸出版,pp.28-29
学校では、質問は相手が知っているかどうか験すためになされる。教師が生徒に、教えたことをちゃんと憶えているかどうか質問する。日常の質問とちょうど逆のかたちになっているわけだ。たとえば「大化の改新は何年?」「オランダの首都はどこ?」というふうに。人を験すというのは、子どものへの信頼をいったん括弧に入れているということだ。だから、験された生徒のほうは、正解だと「当たった」と驚喜する。ここには、知っている者が知らない者に訊くという倒錯がある。
鷲田清一,2013,『大人の背中』,角川学芸出版,p.29
この「験すー当てる」という倒錯した関係は、信頼を育むのではなく信頼を壊す構造になっているという指摘。
もちろん、教員には「発問」という子どもの考えを促すためにあえて質問するという技術があります。
この指摘が「発問」だけを指しているのかどうかは不明ですが、この指摘を放念することもできません。
この「験すー当てる」が常態化しているからこそ、子どもたちが「自分で決める」ことを放棄している、とも言えなくないから。
でも、「つくりながら考える」造形プロセスを語るときには、その真偽は特に関係ありません。
行為者にとっても何ができるかわからないから、教員も当然わからない。
だから、「知らないから聞く」という自然なコミュニケーションが生まれる。
聞かれた側も、相手にわかるように伝える。
こうしたコミュニケーションの中で新たな刺激が生まれることもあります。
上述した「一緒に考える支援」とは、こうしたコミュニケーションがベースとなります。
指導者はコミュニケーションをとることで、その児童・生徒自身の趣向を知ることにもつながり、座学や普段の生活からは見えなかった児童・生徒の姿が見えやすくなります。
なので、こうした造形活動の中では児童・生徒一人ひとりに対する理解を促すことにもつながります。
こうして児童・生徒一人ひとりの理解が深まると、さらに支援の質を高めることができるという好転が生まれます。
もう、「つくりながら考える」造形プロセスって良いことだらけ!!笑
最後に本プロセスについて簡単にまとめておきましょう。
まとめ
いかがでしたか?
「つくりながら考える」造形プロセスについてイメージがつかめましたか?
何ができるかわからないというのは、授業を実施する側の教員にとっては恐ろしいことだと思います。
僕もこの活動をするときは、内心ヒヤヒヤしています。
だからこそ、支援を必死にするのです。
しかもそれぞれ考えるていることや、つくろうとしているものも違うから、一人ひとりに支援をせざるを得ない。
自ずと個別対応になるのも特徴の一つ。
でも、ここで培われる力というのは造形活動の中だけにとどまりません。
だって、人生は常に思うようにいかないものです。
一寸先は闇。
わからないから楽しい。
全てが自分の思うとおりにいく人生なんてすぐに飽きるからね。
自分の感覚に従う。
自分で決める。
これらは今の時代にこそ必要な力です。
図工や美術はそれを直接的に培うことのできる科目。
だから僕は図工や美術は今の時代にとって最先端をいっていると考えています。(割と本気で)
そして、こうした経験を小学校や中学校・高校だけでなく、大学や社会に出てからでもいいので積んでいくことは重要やな〜と感じています。
本プロセスを取り入れた題材は社員の研修なんかにも有効ですよ!(やったことないけど笑)
そして、こうした造形プロセスを子どもの単なる遊びとして片付けるのではなく、子どもの学びに有用であることに気づけると、子どもと共感的に接しやすくなります。
だから、こういう造形プロセスがあるということを知っているだけでもいいのです。
今回は長くなったので具体的な題材については触れていませんが、僕が大学で実施している授業では、本プロセスの理解を深めるために「コロタマコースター」という活動をしてからプロセスの解説をしています。
「コロタマコースター」や「よばい棒」「ABOUT100」「きってつないで木のカタチ」など本プロセスを軸にした活動がありますので、それらについては別記事で紹介していきたいと思います。
今回はここまで。
最後までお読みいただきありがとうございました!
参考資料
- クロード・レヴィ=ストロース、1976、『野生の思考』、みすず書房
- James J. Gibson、1985、「生態学的視覚論—ヒトの知覚世界を探る—」、サイエンス社
- 藤田達人,1996,『工作教育の史的検証と新しい「工作」の創造―迷走する工作・明日への「工作」―』,上越教育大学
- 浜田寿美男、2010、「生活のでの学び 学校での学び」、『「学び」の認知科学事典』、大修館書店、pp.111-127
- 佐々木正人、1994、「アフォーダンス—新しい認知の理論」、岩波書店
- 鷲田清一、2013、『大人の背中』、角川学芸出版
- 福井一真、2015、「図画工作科における「つくりたいものをつくる」活動に関する研究 ー子どもの「主体」の形成と「つくる行為」についてー」、「大学美術教育学会「美術教育学研究」47号」、pp.303-310
- 福井一真、2017、『図画工作科における「つくりたいものをつくる」活動に関する研究Ⅱ —「つくりながら考える」造形プロセスについての考察—』、美術教育学研究、49号、pp.345-352
コメント
コメント一覧 (2件)
[…] このコロタマコースターは大学の授業の中では、「つくりながら考える」造形プロセスの理解を深めるというねらいをもって実施しています。(「つくりながら考える」造形プロセスについてはコチラをご参照ください) […]
[…] そして「つくりながら考える」造形プロセスを取り入れています。(本プロセスについてはこちらの記事をご参照ください) […]